ジャン・ジュネとヴィスコンティの頽廃

花のノートルダムを読み、イノセントを観て

 

頽廃の超過は聖性をもつことができるのか。

ジュネの頽廃は一見環境的なもののように思われるけれど、みずから頽廃の海へ身投げをしている。好んで溺れている。

ヴィスコンティの頽廃は、本人が崩れてしまっていることに自覚を持っていない(し、この先持つこともない)。

頽廃することに意図があるかどうかのこの違いはとても大きいと、おもう。

 

ジュネの描くディヴィーヌは、汚い世界で泥にまみれて生きているが、「すべての色を身に着け」ていて、それは純白であるという聖性とは真逆でありながら輝かしさと純粋さを備えている。

きらびやか・華やかな貴族的世界で生きながらも「教育を受け、金もあるが、それがなんになる?」と言われるイノセントのトゥリオはまさに、「実験で使われる鳥の脳みそ」(サガン)くらいの頭しかない俗人なのである。

イノセントの映像があまりに美しいだけに、トゥリオの空洞が際立ってしまう。暖炉の前で沢山の開きっぱなしの本に囲まれ、パイプを蒸して本を読むトゥリオ、痛々しいほどに、そこから何も得ていない…