逃げられない人々の生活について

私が広島出身であることの意味を
原爆の教育を受けたこの記憶を
外国人被爆者の存在を大人になるまで知らなかったという事実を
同じ国でフクシマが起こってしまったという反復を
この頃よく考えている
 
ドイツに留学中にウクライナで戦争が起こったこと
最寄りの鉄道駅でウクライナからの難民たちを見たこと
彼らが日本では「避難民」と呼ばれたこと
私が日本に帰ってきて一年経つ今も、戦争が終わっていないということ
核兵器が、また使われるかもしれないということ
 
逃げれば良い、避難をしてしまえば良い
では、避難することができない人々は?
そこにあった暮らしはどうなるのだろう
今もそこにある暮らしは?
 
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東京都写真美術館で行われていた、
本橋成一ロベール・ドアノー 交差する物語」展へ行きました。
 
キュレーションが素晴らしかった。
二人の写真家が被写体に向ける慈しみの視線が、人間の生を愛おしむ姿が並行して展示されていて
フランスと日本の二カ所が結びつき、「交差する」様子が見えてくる。
 
(展覧会の初めに、ドアノーが撮った子供の写真(こちらに向かって駆けてくる笑顔の少年)と本橋成一の撮った坑夫の後ろ姿(トンネルの中を重い足取りで奥へと進む)が対置されていて、胸を掴まれました…。あの入り口でもう展示100点です…)
 
展示の後半に、本橋成一が撮った原発事故後もチェルノブイリ付近に暮らす人びとの写真シリーズがありました。
 
たまたま今、安藤量子さんの「海を撃つ 福島・広島・ベラルーシにて」という本を読んでいて
とても重なる部分が多く感じたので、文章を書いています。
 

本橋成一の撮ったチェルノブイリでの写真 バスに青年たちが乗っている その上に安東量子の本「海を撃つ」の1ページが開かれている
 
原発事故が起こると、付近に住む多くの人は避難をします。
だけど、全ての人が避難をすることはできない。数十年そこで暮らしていた人が、いきなり他の街へ行けと言われても、頼る人もなく、新しい慣習に慣れることも難しいでしょう。
 
自分の意思で、または仕方がなくそこに暮らし続ける人たちがいるということを
福島の原発事故が起こってから10年以上経ったこの日本で
私も含めてどれだけの人が思いを馳せているのだろう。
(そして、人間以外の生命のほぼ全ては逃げることを知らないでしょう)
 
人の暮らしに目を向ける、ということが
東京に住んでいるととても難しい。
重なり合ったビルの小さな窓からは
とても想像することができない。
 
原発事故の処理をさっさと済ませてしまおうとする政府を見ながら、私はスマートフォンの前で立ち尽くしている。行動に移せないまま、何もできない無力感に襲われてしまう。
 
原発は何があっても反対です。
 
誰もが人びとの生があることを忘れてしまっても
私だけは覚えていたい。
そんな作品が作れるように頑張りたいと改めて思いました。頑張ります