過去と未来

「ときに未来の家は、過去の家よりも、堅固で、明るく、ひろびろとしている。」

過ぎ去ったもの、経験したものというものは主観や記憶の強度によって、夢想よりも夢想的なものになってしまう。ある方向を目指して夢想された未来はそれ自体確固とした存在として君臨する。

清水宏の映画について

 

清水宏の映画を三つほど見た。『簪』.『ありがたうさん』.『按摩と女』。

按摩と女が一番好きだった。全体的に流れるような映像だなと思った。音楽のような、ひとまとまりとしての印象が後に残る感じ。だけど、按摩と女では特に、バストショットで女性が映るカットが瞬間的に強いような、そういう瞬間性みたいなものがあってとてもよかった。

簪でも、青年の歩行練習の際の脚のクローズアップとか、力を込めてぎゅっとなるその瞬間を捉えているのがよいなと思う。

この二つは本当によく似ていた。物語も、舞台も、使用されている構図や人物像も。違うところについてもう少し考えてみたいな。

 

簪では洗濯物を川の側で干しているシーンがあったけど、白い洗濯物(シャツとかシーツとか)が物干し竿に干されているのってすごく絵になる。テオ・アンゲロプロスの『エレニの旅』でもとても印象に残っている。

洗われたもの、浄化されているものの大群に触れることは私たちを快くさせるのだけど、それはすぐにきっと汚れがついてしまう。純なものの幻影を見せてくれるものでもあるのかもしれない。

 

清水宏の作品は短いのでとても見やすい。やはり無駄に長い映画はダメだね。(でも、この前見たベルトリッチの1900年は、よかった)

 

 

追記 3.26

 

白い洗われたものの大群って、案外気持ちの悪いものじゃないか。目の前に純なものしかないことって、汚れたものにとっては耐え難い苦痛でしょう。汚れることは一瞬だ。純なものはだからこそ弱くて、すぐに汚れてしまう。

夢日記

田舎の一軒家にいた。人を殺したのか、殺された人がいたような感じだった。偽物の母と一緒に、後から来る妹と父がそれに気づかないようになんとか隠蔽した。

 

偽物の家族と旅行に行こうとしていた。

もう一人弟か妹ができていたけど、その赤子は気味の悪い奇形な顔立ちだった。ひさしぶりに会ったわたしのことを覚えていない様子だった

 

飛行機に乗る予定だったのに時間を確認していなくて、喫茶店でゆっくりしていたら、間に合わなくなりそうだった。走って向かおうとしたのに忘れ物ばっかりで前に進めない。エレベーターも降りてこない。